A豊乳ワールド

三連休はすごい人出だった。外国から人が着ていないのに駅前も電車もぱんぱんでこれからどうなってしまうのか、ほんとに景気は悪くなるのか、それともみんな自分と同じで大して金もないのに出かけたい気分になっているのか、10月の決算期ではまだそれは教えてくれないんだろう。岸田がまわりの族議員に引っ張られて再開した旅行支援はまじでクソだ。固定費が上がって何もしていないのに金が減っていくなかで旅行をしてもどんよりして何も楽しめない。喫茶店でタバコを吸っていた方がよほど気分は遠くにいけると思う。それがニコチンの作用だったとしてもムードは本物なんだから

 

クローネンバーグのコズモポリスの雰囲気が良すぎて最近印象に残っていったところでドン・デリーロの原作を読んだ。脚本でどう料理しているのかと思ったのも気になったところだ。クローネンバーグはあまり理屈は尊重しない。濃淡はあれど出世作ビデオドロームでは特に顕著でそれが魅力になっている。関係性の相似や反復に支えられた不条理(高橋洋監督の新作 ミソジニー はその方法論を使いこなしていて見ごたえがあった)。しかしこの原作を読んで驚いたのは、ほとんどの筋書きイベントをなぞっていたところ。しかも唯一避けたシーンは予算の都合かもしれないが、めちゃくちゃに暴動が起きた後のNYで全裸でアート映画の撮影に巻き込まれ、そこで新妻と遭遇して肉体的接触に至るというシーンというのがクローネンバーグらしい。そのことで為替取引で静かに破滅しながら何もかもリムジンで済ませるという主人公の一貫したモードを強調できてよい映画になっていた。しかも、このシーンを入れたとしたら原作の主題が確実にシラけることをわかって端折っている。クローネンバーグは素晴らしい仕事をした。原作を読んで初めて明確にわかったのは、この話は資本主義に外部があるのか、というのがテーマであるところだ。映画ではそれはほのめかしにすぎず、冷酷で色魔な主人公が何にリアルを感じるようになるかというのが主題(アメリカンサイコでは届かなかったところを明らかに意識している)。一貫して資本主義の理屈に絡め取られていくなかで社会的破滅の先の肉体的な痛みを通じて人生を意識できるというラインになっている。映画のなかで映画に出たらそのストイックさが外部内部の関係が露骨に現れてしまうだろう。世界が開けてしまいリムジンの長回しも台無しになってしまう。小説から映画に落とし込む中で、クローネンバーグはたぶん感覚的に避けたのだろうすごすぎるクローネンバーグ。
んでやはり小説は小説でよくできていた。2000年代初頭にここまで加速主義的な世界観を描いたのは先見の明がありすぎる。テロをひきずっていたのだろうけど、この世界はコロナのあとで市場が楽観的になっているまさに今の雰囲気を描写していると思う。このような本はプレゼントに最適だと思う。主人公はオタクやシングルマザーや異教徒、出稼ぎ移民といったマイノリティに無自覚無根拠に惹かれてきた。暗殺の噂が流れる大統領の出席行事があるNY暴動の日にただ床屋に行きたがる一日の話なんだけど、これは巨額の為替取引で同等の影響力を持つという自意識を表している。それでも為替の不条理は避けられず、空しさを奇行とセックスで埋めながら急速に一文無しに向かっていく中で果たして資本主義の外は存在するのか、するとして自分がそこで生きている意味はあるのかを自問する話(一文無しという状況もアウトサイダーも資本との関係において存在することは幻滅につながる)、美しすぎるだろ!!
ドン・デリーロはユーモアのないピンチョンで、内外に同じだけ自己を拡張する中動的なディックなのであるなそりゃ地味なんだろうけど、社会の外の手触りに吟味している書くことにとても真摯な人だと思う。

みうらじゅんの活動のひとつに親子孝行プレイというのがあって、それは彼にとってはSM趣味からきている羞恥プレイのバリアントなんだろうけどコミュニケーションというもののの根っこをかなりつかんでいたと思う。関係性というのはなんでもプレイに修練されるものなんであって、ブラック労働を止める啓蒙の糸口もここにあるんじゃないか。労働環境を法でがちがちに是正しなくともストップワードを尊重しさえすれば現代奴隷労働はそこそこ機能するはずだ。
いっぽうすべてがプレイだと開き直ってしまえば人生は味気ない、だからこそヒトはSMに惹かれるのだと思う。痛みを通じた関係は自分事でありかつほかの関係に浸食するジョーカーになりうる。ロマンポルノナウ二作目、白石監督の 愛してる! はコメディではあるけれど偏見のないSM理解に基づいているもので感動した。それのみならず、プロレス志望の地下アイドルが女王様として見いだされるというストーリーを通じて、地下アイドルとプロレスというカルチャーの魅力をSMを接点にして掬い上げている。どちらもシラけを克服してこそ熱くなれるものでそれだからこそ楽しめる、ラストに向けて全部がごっちゃに絡み合っていく様は最高に馬鹿であるからこそ素晴らしい。今年の邦画でいちばんだったかもしれない。キャスティングもよかった。ストップワードが愛してる、という設定ひとつで無限の可能性がある、豊かなエロさだ

なのにロマンポルノナウ一作目は失望しかなかった。山崎ナオコーラ原作の 手 はロマンポルノの暖簾を下げることを完全に失敗している。あげればきりがないがすべてがうまくいっていない。それもひとえにロマンポルノの可能性を信じていないからだと思う。ロマンポルノはAV前夜の映画館マジシコり連中のニーズに応えるためか、出入り自由入れ替えなしという環境が生んだ部分視聴する余裕ある大人な連中に向けてかはわからないが頻繁に性交シーンを挿入しなければならないという制約のもとに名作がたくさん生まれてきたんだろうが、本作は単に性交シーンが多様で長いだけだ。しかもそれがファザコンの歪みゆえジジ専の主人公が同世代の男にガチになれたのに実はただのセフレだったという流れを台無しにしている。いろんなセックスを楽しんでいたらどう見てもセフレという関係にしか見えないだろう。相愛であったとしてもその行為中はセフレでしかない。その淡々とした情事を超えたところにどのような瞬間を、関係をみせるか、というのが普遍なロマンポルノの醍醐味なんじゃないのか。セフレにされ傷つくというところをハイライトにするのは狂っているし、ただ原作をトレースしてだらだらとセックスを描写するグニャグニャな運びは何もかもを台無しにしている。
唯一よかったところといえば、それは愛してるにも共通しているがみな乳首が平凡だったというところだ。奇乳を差し込むエロ映画の様式美はよくわからない。それとも昭和には多かっただけなんだろうか

 

やっと夏が終わった。毎年この季節には巨乳が確実に増えていると実感させられるのはいささか奇妙であったけど、その理由がわかった夏でもある。ここから先の購読は有料としたいくらいの発見だ。ブラジャーには流行というものがあり、盛り方もまた微妙に変化していくのである、去年とはひと味違う膨らみの女体群を続けざまに目視すると、みんなデカいな、とただただ思わされてしまうんだ
生きていればいろいろなことがわかって面白い。それと引き換えに失われていくのは歯茎の鮮やかさと頭髪くらいなもんだから、なんとでもない