指ーのルビ輪

最近多分ものすごい長編読んでたけど8割方きたところでなに読んでたのか忘れてしまい悔しい。しかし小説の起承転結にはどれだけの意味があるんだろうか、ある程度ストーリーにしがみつかないと小島信夫の後年のようになりそれはブログみたいでどうなんだ、とは思うが、彼が保坂和志との対談で小説のなかで手紙を書くのにハマっている、というような話をしていたと思うがそれはきっと小説においては手紙を綴るという行為が純粋に必然だからだ、その描写を執筆するときだけは自分と私が完全にシンクロせざるをえない、私小説かどうか関わらず健全な行為で、それ以外のパートはすべてむず痒い嘘といえば嘘であって

 

物語ありきという映画のカルマに対して、ミヒャエルハネケという監督は残酷描写に精を出すことをエクスキューズとしているが彼の本当のライフワークはよくできた物語と残酷な現実とのギャップを埋めようとするところにあると私は信じている。その結果どうなるかというとただ紋切り型の映画の予定調和が崩れてこちらは不意をつかれ恐ろしい気分になるどころか、さらにはそもそもなんで映画を観たいと思ったんだっけ、という白痴的な虚しさを観た直後に感じさせられてしばらくたったらまたハネケ体験を求めてしまうという微妙な味付けのココイチカレーのような存在がハネケだ、ベニーズ・ビデオはクローネンバーグのビデオドロームと対をなす良作だった、それらは陰陽というかんじで、ビデオというものの不気味さを捉えている

Jホラー脚本家高橋洋の著作集『映画の魔』はどうしても欲しかったがプレミア続きでとうとう図書館で借りてしまった(図書館で本を借りるほど不快なことがあるだろうか借りた瞬間にどうせ延滞して怒られるんだと萎縮した)がやはり良い。理詰めで怖いものを追い求めている。年間ベストを紹介する連載が、96年あたりから数年間かけて急に熱が冷めていったのが恐ろしかった、きっとその頃に彼の考える映画は終わったに違いない、キルビルハイカルチャーになったあたりだろう、歯痒さどうしようもなさが伝わる、あのあたりでお化け屋敷系のスリラーが出てきて、高速インターネットがエンタメの濃度と速度を変えてしまったんだと思う。映画は手軽に驚き等を摂取するおっきなビデオに成り下がったどころか、大多数の映画が好きな奴らは映画見ていない時間を日常と規定してしまった、その結果過剰さが好まれるようになったのは必然だ

その他の娯楽コンテンツが溢れた結果、映画館が過激な作風を軸とするのは合理的だし好ましい。しかし最近増えてる過激な映画だけを贔屓するバイヤーの存在はホラーファンにとってはかなり悪い風潮だと渋谷でセルビアンフィルムを観て思った。

セルビアンフィルムは途中退場多数の触れ込みの割には観やすさがコントロールされているように感じる。過剰なのはペドや近親ソーカンといった倫理コードくらい。ストーリーは元天才ポルノ男優がヤバい仕事に巻き込まれるというシンプルな流れで、出だしのPTAのブギーナイツへのオマージュ具合なんかはすごく器用なんだけど後半はその器用さが仇となる、なんと主人公はシャブを盛られて記憶喪失になり、その記憶をビデオテープで辿ることとなる、そのパートに過激描写が盛り込まれていて、観客は主人公せるけんと共にそれらを追体験することになるから結構エグいものも観れてしまう。これが狙ってやってるとしたらエンタメとしては良いのだろうけど、たぶんポルノビデオをテーマにしてるからーとかいうノリの安直な発想だろう、いかにいまここで起きていることの様に感じさせるかというのが恐怖映画の醍醐味なのに、倫理コードを蹂躙しまくりつつその山を登ろうとしないのは卑怯である。なにより悲しいのがこの映画そのものがアダルトビデオのような凡庸な存在になってしまっているところ

前衛的な試みは時として過剰な描写をともなうもので、その部分は魅力のひとつだけど、過剰さだけを愛でていてはとりこぼしてしまう映画の感動はたくさんある、本末転倒なんじゃないかな