この世はでっかい宝塚

人の脳味噌のシナプスがWEB状に張り巡らされている形状からもわかるように、知識は指数関数的に増加する。何かの方面にくだらない知識をお持ちの殿方(聞いてもないのに教えてくるというのは極めて男性的なコミュニケーションであると今日なお感じるので多分あれはキンタマ反射のひとつなのでしょう)の突き抜け具合というのは甚だしく大抵は変態級に思えるもので、何かに多少詳しい、ということはありえないというのはその増加のカーブの著しさゆえなのだろうが、博物的な人間の価値というのはウィキペディアの充実にともない逓減したことには間違いない

人知がネットのサービスよりも優位であるのはそのリンクの仕方で、時としてくだらない、サイファーの冗談のようなものから過去のトラウマ級の経験に関わるものまでをつなぐひらめきというものにある、そのリンクこそがその人が何者かを物語る唯一の方法なのではないかと思う。春日武彦『私家版 精神医学事典』は完全なる連想で紡ぐ大著、どこから読んでも良いうっすらとしたくだらなさが絶妙なバランス感覚で持続するなかで、サブカルチャー・雑学や三面記事を行き来して精神医学のスタンスを詳らかにしており執筆の目的は果たされているものと思われる

特にくだらなく笑ったシーケンスは以下

 

日航350便→逆噴射家族

狂信者イーライ(※フィリップ・ロス著)→イーライ・ロス

フーグ→フーガ→一卵性双生児→ダイアン・バース→三つ子→興醒め

 

最近文庫になった『鬱屈精神科医、占いにすがる』では彼が自身の凡庸さに悩まされていることが最大のコンプレックスであることが明かされるものの、その凡庸さが功を奏してこの事典では脳味噌がリンクするかのような連想を皆に追体験させることができているんだろうと思った、人生の走馬灯のような輝き、こういう本はプレゼント向きですね、しかし半ば悪趣味に精神病を言葉少なで茶化しているのでアレですが

 

旅行どころか外出も最近できないので高野秀行ソマリランド探訪のノンフィクションを今更ながら一気読み。面白い…親戚から進路の相談をされたら迷わずに早稲田の探検部に入るように答えたい。人生は冒険や!ゆたぽんこそ早稲田に行け!映画ブラックホークダウンの敵役アイディード将軍の話もある。あのソマリア撤退があって国連から干渉を受けずに摩訶不思議な民主主義国家が誕生して、著者は向精神作用をともなう宴会にせっせと顔を出して聞き取った結果それが氏族制が機能してることに由来することを突き止めるっつうハンカチなしでは読めない感動巨編だった

ブラックホークダウンは戦ってそこそこ死んでそこそこ生き残ってこそアメリカ的な典型的現代プロパガンダ映画ではあるものの、ラストのシーンで不気味な現地人に囲まれながら敗走するところが何を狙ってるのかわからないがめちゃくちゃ怖い、それぬきでもまあアメリカの戦争の仕方が理解できる良い映画だと思う。リドリー・スコットの映画のドキドキさせ方はめちゃくちゃ好きかもしれない。エイリアンもそうだけど、急におっきな音ださないし、なにがなんだかわからない、みたいなカットがない。志村うしろ的なビビらせ方が好きだ。ホラーだとエスターや死霊館あたりの時期からお化け屋敷と変わらない音量や接近物でビビらせる子供騙しのクソくだらない手法のものが増えて、それがスリラーという分野で幅をきかせているがあんなものはアングロサクソンの酒飲みのアテにしかならないクズ映画なのであって、サブスクでホラーとスリラーを同じジャンルで括られては本当に困る。悪魔祓いだけでもいいから別の括りでソートさせてほしい

 

ビデオで見ても損なわれない空気感のようなものが救いで、やはりコーエン兄弟はそれがあるような気がする。フォークナーやアンダソンの小説を読むときの補助線になるほどの南部のどうしようもない雰囲気など。人間関係のもつれがこじれにこじれて、という話を得意とするけれど、西部劇的な妙に半端なカタルシスがあったりとバランス感覚が良い。ビッグリボウスキのビデオレンタルで火がついたキャリアなだけあるが、それ以前の作品のほうが好きだ

 

変態ムッツリ女教師とアイススケーター風イケメン生徒の禁断の恋を描いたミヒャエル・ハネケのピアニストを久しぶりに観たらレッスンそっちのけで変態プレイに興じててびっくりした。もっと音楽教育とSMの二重の関係に陥って、というものだったと記憶していたがハネケらしくバランスを欠いた奇妙な話だった、たぶんこの記憶違いに影響しているのはかの音楽クソ映画セッションだろう。セッションは全方位的に終わっているものの、成功しているといえるフォーカスとしては、教師はみなかつてのプレイヤーだという着眼点だ、格闘技等でもそうだが、教える側というのはたいがい一線は退いており、レッスンというのはそこをあやふやにして進行するもので(ジャンプだけは違う、亀仙人は強い)、いつでもボコせるという生徒と実は力に嫉妬しているという教師のそれぞれの事情による緊張関係の上に成り立つものだ。ハネケはピアノシーンと変態プレイシーンを分けているからそこには立ち入らない、しかしそのことによって、クラッシック教育とBDSM、禁欲主義の共通性をあぶり出しているのがキモキモハネケらしく上手だ。クラッシック、特に女教師が得意とするシューマンは情緒が不自然で訓練によって解釈が必要になるような、時としてシンフォニックメタルなのかしらんというようなゴテゴテしさがある。女教師は共依存のママに世間知らずだがシューマンは知っているという変態に仕立てあげられて…という単純な話だがこの主題はとてもスリリングだ(題名のない音楽会という朝のクラッシック啓蒙テレビ番組がある。途中に演者のプチ情報がテロップで流れる仕掛けが施されているのだが、あるファーストバイオリンが、ビーズが好き、というコメントを寄せていた、ここにクラッシック畑の病理の種明かしがされていると雷に打たれた思いだった、まず番組の趣旨からしてクラッシックに親しんでほしいのはわかる、しかしクラッシックの良し悪しがわからない状態でB'zが好きな奴のことを信用できるか。そしてこれは彦摩呂か寿司の食レポをしている時に「好きなお菓子はバカウケ」と出てくるようなものである、ならとっとと家帰って屁こきながらバカウケ食えよ、という話になる、このテロップの正解は意外性庶民性があればなんでもよかったはずだ、大のパチンコ好きとかで十分なのである、B'zを聴いていたら耳が腐るかどうかという点はさておき、とにかくクラッシック奏者に我々が芸術に関する美に対して抱きがちな情緒はいらないということだ、きっと紫豹柄の布団で寝ていようが、鼻糞をモリモリ食べていようが、良いバイオリンというのは弾けるものなのだろう、彼ら彼女らがやっているのはディシプリンを習得するという技術という意味でのアートというわけでただし指揮者に関しては勘の良さやロマン、アナクロニズムくらいは必要だと思うけれど)。いっぽうでセッションが滑稽で残念になってしまっているのはまずビッグバンドだからセッションはしていない点、そこを大目にみるとして抑圧的な環境で人はスイングできないのではないかという点に起因する、ただしそれらを切り抜け映画を成立させているのは、主人公はドラマーだというところが効いている。この映画を見たらわかるように、ジャズドラムというのは音楽よりもスポーツに近いのである、この映画の監督は音楽における師弟関係の危うさに気づいたのは良いものの、クラッシックでもバレエでもなくジャズを奇しくも選んだこと、そしてパルス運動に還元されるドラムという楽器をチョイスしたことで、ロッキーとそんなに変わらない映画になってしまったのだ、ロッキーは良い映画だがこの映画は期せずして踏絵になってしまっているのであり、観る者にとってアートという言葉のがどのような意味を持つかを判定するためのリトマス紙として機能する、ソファに寝っ転がってインスタやツイッターでなんとなくかわいいもの面白いものを集めて嬉しくなってしまうほぼ人類全般にとっては当然この映画は否とされるべきであって、この映画は教師の道を閉ざしてストイックにハード・ロックに向き合い続けている稲葉のようなヒーローのために捧げられ、そして松本に相談されるべきものなのだ