ドライブ・マイ・カーのネタバレ集成

村上春樹は真面目に読んでいるわけではなく、海辺のカフカくらいから自分のモノマネで文体が窮屈でいまいちになっていっているな、位の印象しかないが、俗に言うハルキストという連中、主に飲み屋で有意義な小説についての情報交換中にカット・インしてきて

村上春樹が一番好きだという

・小綺麗でアイビールックがちで

・ナルでキザで説教じみた話し方をする

・年いってんのに性欲がしっかりあって

・男尊女卑的で

・所得が高そうな

おじさんたちに、これが俗にいうハルキストか、と辟易したことが幾度かあり、その都度段階的に村上春樹とその周辺コンテンツの一切を遠ざけるようになってきたが、車の映画は見ることにしているので、ドライブ・マイ・カーをみた。

3時間もあるしさすがに、良い画はたくさんあった。特に会話や台詞のカセットテープが再生されないときにだけたまにながれる石橋英子(ウンベルト、カノウとならぶ世界三大エーコのひとり)の音楽は非常に美しくエモ的だ。しかし機能しきっていないギミックやバランスを欠いた悪い裏切りも目立ち、もっときれいなストーリーにできたのではないかと、かなりもどかしさはあった。

その稚拙さは目をつぶることはできるのでとりあえず置いておいて、

 

〇良かった点と気づき

・赤の欧州車がセクシー

・主人公の自身の人生へのコミット度合いとパラレルで、赤のセクシーな欧州車を前半は引き後半は主観の画で存分にみせてくれる

岡田将生はV6の岡田クンではない

岡田将生は若いころの流れ星ちゅうえいに似ていてかわいい

・ドライバーという仕事はメカニック的な印象から男性向きとみなされていたが、実はケア労働の側面が強く、女性のほうが向いているかもしれない

 

〇問題点とこの映画が受容されることの危うさ(私が原作にあたっていない限りにおいて)

まず、主人公の舞台俳優は典型的なハルキストである。これは村上春樹原作の映画化だからというレベルではなく、舞台台詞やその台本にまつわるコミュニケーションが多く、意図的に書き言葉的な発話を志向していることに起因するが、そうすると何が起こるかというと、前出の私が飲み屋で幾度となく絡まれたウザい中年に酷似することになってしまうのだ。初の公認ハルキスト。

ハルキストとの出会いは人それぞれであり、たいして被害をこうむっていない大半の人間にとっては問題がないかもしれない。しかし私はこの映画の問題は2021年においては、そこにあると思う。この映画の感動は、高所得・文化資本の男性性を手放しに肯定することによって得られる仕組みになっているからだ(これは最後に再確認する)。

ストーリーはセックス・モンスターの脚本家の妻を亡くした舞台俳優兼監督が2年後に穴兄弟の岡田クンと育ちが悪いが運転がうまく寡黙な運転手に地方で依頼された滞在型の演劇製作現場で出会う。演劇は主人公が得意としえきたチェーホフの戯曲(ワーニャおじさんをソーニャという女が生きろと励ます話、という点だけおさえておけばよろしい)を国際色豊かなメンツで各々の母国語で演じるというもの。セックスに起因するアクシデントが諸々起こりつつ物語は進展し、そのつなぎで主人公の乗る車で嫁のカセットに吹き込まれたソーニャの台詞、それに練習のために応える主人公のワーニャの台詞が補う。観客は人生のだいたいの出来事をチェーホフで学ぶことができるし、主人公もチェーホフのテクストの深遠さを認めているからこそ言語を超えたコミュニケーションの困難さを敢えて取り入れライフワークとして対峙し続けている。主人公は岡田クンのセックス・モンスターに纏わる思い出話や、互いに死を乗り越えたことで共感することになる運転手の過去の話などの告白に助けられ過去と向き合う覚悟が生まれてくる。でも自分のかわりにワーニャ役に抜擢した岡田クンが飛んで舞台の準備がまずい状況に。悩んだ主人公は運転手の女に故郷を見せてくれと頼んで、期限の2日間でめっちゃロングドライブを女にさせたあげく、運転手の女が見殺しにしてきた母が眠る地元に訪れたところ、そこで過去を清算できた女の一言に確信をつかれ泣いてしまう。つまり運転手の女は主人公にとってソーニャであり、それにより励まされ男は舞台で本当のワーニャになることができた。ここまではまだ話はきれいだ。問題はここからで、運転手は独力でワーニャになれた強い人で、なおかつソーニャのように自分の地元で主人公を励ました尊いミューズである。にもかかわらず、励まされた男は速攻で女を抱きしめて、頭をポンポンしながら人格が変わったかのようにお互い頑張るしかないという類の説教する。さっきまで泣いてたににも関わらず。こんなヘボい瞬間は目も当てられない。男のどうしようもない弱さについての話なのか(それにしては岡田クンに寝取られながらの勃起力には目を見張るものがあるが)?だとしたらリアリズムの極致だ、だってこんな最悪な勃起ハルキストなんて、はいてすてるほどいるからな。この映画で存在を公認されてよかったねおじさんたち…とエンドロールを前アイロールしそうになったがなんと話にはまだ続きがある。

なんとなんと、女はいいとこなしのこの男(しかもこれまでライフワークとしていたチェーホフの戯曲の意味は今さっき理解したばかり)の芝居(役のソーニャに再び励まされるさっきのメソ男)を見て感動するわけがないだろうに(あくまで女は仏頂面だからわからないが、そこがエクスキューズ、うまい)、男と人生をともにする決意をしてその後も韓国で男の車を運転することになる!!!なぜ、いいとこなしのこの男と人生をともにする決意ができるのか。さっきの情けなさを帳消しにできるくらい、純粋に芝居に感動したのであっても、その感動は、主人公がよくわからないままチェーホフという題材に飛びついて蓄積してきた芝居の力のみにあると断定せざるをえない。それ以上の感動はここでは得られるはずがないのだ。なぜなら男にチェーホフを理解させたのはその女自身だからだ。アッシーに徹する彼女は男からは何ももらっていない。そもそも女が男に好意を抱いているのは、高価な欧州車を大事に扱っている点のみにおいてである。また、そもそもその男が女を必要としているかも怪しい。チェーホフの万能性には鼻が利いていたわけだし、女の地元がセラピーになることもその嗅覚ゆえの行動かもしれないからだ。女は利用されただけで、男のずいぶんと高尚なオナニーをみせられただけの可能性もある。

ここまで追ってきたストーリーからわかるのは、この映画で感動するためには以下の価値観を共有していなければならないということだ。これらに乗ることができなければ、ラストは理解不能になる。

・女は尽くす生き物で、男からはなにも返さなくてよい

・女は無教養でも時に確信的な気づきを得て、男に与える。男はそれに励まされ、すぐさま説教してもよい

・男が高級で上等な車を所有するなど丁寧な消費をおこなう姿を見せるだけで、女は十分に人生を添い遂げる好意を抱くことができる

文化資本を蓄積した結果として高所得を得る男は、ケア労働に従事する低所得の女の人生を左右してよい

 

この映画が評価されるだけ、次の選挙でも自民党が案外しっかり票を取るんだと思う。