おいしい牛乳飲むのだDUNE

4月になったら暇な部署に異動ができそうだ、というぼんやりとした希望を抱きながら、YAMA Qがマジで呪われてる家の様子を間延びした声の調子で実況してくれる新作動画をアップすることをだけを心待ちににつつ、時があっというまに経つのを耐える本当に虚しい日々。そのあいだに存命の祖母はしっかり歳をとってヨボヨボになっていることだけが後悔だ。自由な時間に必ずにしたいことといえば積んである本を読むことくらいだから、懲役刑を喰らうのが向いているとつくづく思う。鉄砲玉にでもなろうかな。

とはいえ先週は忙しすぎて喰らった。深夜に仕事を終えたら池袋の大都会くらいしかまともな食事(というのは決して味がちゃんとしているということではなく選択の自由があるということだ、外食の醍醐味の大半は着席した瞬間に何を食べるか考えられるところにあるのだから、牛丼屋やラーメン屋は論外)ができる場所なんか夜が弱くなってるこの辺りにはなく、仕方なしに大都会でメシをくらうんである。そこでショゲた気持ちでいろいろ食べ飲みしてたら昭和の曲しか流れない有線から「あなたの夢を〜諦めないで〜」という曲が流れてきて染みてしまった。別に夢なんてないのにね。80年代歌謡はもれなくエコーが深くバスドラムが重くて、やけに泣けてくる。ラジオで細野晴臣が自分でつくった吉田美奈子の曲をプレイしたあとにしきりにバスが重いんだよ…と言っていたことは忘れられない。バスだけ軽かったとして今どうにかなるのかよって話だ

 

KKが出国時にジーンズメイトで売ってそうなニットの隙間からチラ見せしていたTシャツ(にしてはリブの幅が狭すぎて、グンゼのババシャツみたいだった)は、ダースベイダー柄だったらしい。偶然かもしれないけれど、正しい心を持った国民のオモチャかつ人気者のマーコ・スカイウォーカーを連れ去るには非常に気の利いたチョイス。吉川晃司は長年保持していたKKといえば、の座を譲渡していま何を思っているんだろうか。本当にお疲れ様でした。今日は戸川がバイトし始めてなおさら居心地がよくなった近所の飯屋でずっとライブ映像が流れていたけど、吉川晃司には本当によくできた曲が多い。どーん!すとっ!まいらー!恋を止めないで〜!なんてクネクネしたクソキモ中年が歌ってたら誰も奴の恋なんて止めやしないんだからさ

容姿やゴシップ込みで楽しめた歌謡曲の豊穣な世界はどこへ行ってしまったんだろうか。最近のヒット曲は一面的で非常に恥ずかしい、それを知っているがゆえに受け手はアニメソングの主題歌として受容したり、TikTokでクネクネするしかないんだろうとさえ思う。

 

DUNEはあまり評判が良くなかったから不安で気合を入れて池袋の正規のデカい画角で流すところで観てしまったら想像以上にひどくてドツボで恥ずかしい映画だった。ワイドとフルスクリーンを無秩序に切り替える様はパワポを作り込んだスタートアップ社長の業績見通しのプレゼン資料のコンマリズム溢れる美に極めて近い。過剰な上映テクノロジーを駆使した冒険は、しこたま金を集めた商業映画の宿命だから仕方がない、とはいえ世界観は目も当てられないほど陳腐すぎて、ナウシカハムナプトラとマッドマックスとナショジオの動画を組み合わせたような、オマージュというにはほど遠い薄ら寒すぎる半端な既視感の連続。自民党に怒る暇があったら少しはこっちに怒ったほうがいい、自民党は私から一晩で3000円と2時間半を奪ったことは一度もないですよ、おしっこも我慢したのに台無し

創作、特にSFというのは決まり切った型のようなものがあり、それらのほとんどが半ば無理矢理であればシェークスピアのどれに近いかというクイズでは満場一致の解が出るものであることは藤岡弘探検隊を卒業できた我々であれば自明なんだけど、わずかなフェチを許さないほどのクソみたいなことの運びだった。主人公サイドは帝国のなかで芽を出しつつある領主で、帝国から突き放されるエディプス的なラインのなかで見せられる予知夢と短剣によるチャンバラ(サンドワームの歯からつくられたという特別な剣による殺陣は序盤とクライマックスで型がまったくいっしょ、舐めてんのか)の連続は見るものに感動の余地を与えず、色々あった風の夢で観た女を探し求める(女はみつかった、ゲリラ軍のモブ家来として!女ボスじゃないのかよ!ありえない!!)やってる風の主人公の王子がいろいろあった風の逃避劇を振り返り最後にしみじみと呟く「デザートパワー…」というヘキサゴンファミリーも驚きの白痴台詞がこの映画のくだらなさの全てを体現している。レビューでは物語の急展開を指摘するものが多かったが、それは確かに細部の作り込みがモノをいうSF映画にとっては痛手ではあるもののさほど気になるレベルではない。むしろ最も頭がおかしいのは砂漠に巣食うサンドワーム(これはまんまナウシカのオーム風の生き物である、というメタ理解を観客に委ねている点だけとってもこの映画はおこがましい)の作り込みが本当にひどくて、巨大化したヒルそのものの造形であ話の展開にはまるでその生態が絡まないでただただ歌を忘れたクジラまんまの生態でのうのうと捕食を繰り返す畜生にとどまっている。そんなチンケな生き物から難を逃れただけで砂漠の脅威を理解するもんじゃない。海よ俺の海よとか言いながら光進丸を火事で失ってショックで亡くなった加山雄三の人生に謝れ!皺寄せだなぁ〜

 

また、シリーズ物であるからカタルシスは不要、という甘えも決して許してはならない。予知夢というフォーマットでコンテクストや待ち受ける運命を示す、というのはストーリーの爆速な展開とはマッチしていて器用なんだけど、とはいえ何らかのケリはつけるべきであって、デザートパワーへの畏怖なんてのは開始3分で巨大スクリーンを見つめた全員がわかってること、何をいまさらなんである。本当にクソ3つぶんほどのホドロフスキーを喜ばすためだけに存在する映画だった、ホドロフスキーごと全員くたばれよ

 

壮大なストーリーの一部を切り取る、というギミックで近年はっとしたのはジェームズキャメロンのアリータバトルエンジェルだった。原作の漫画を観ていないから知らないけれど、メタ理解に頼らない純粋なオリジナルの世界から2時間の切り取るセンスがとても良い。アンドロイドのアリータがなにかと欠損した街(特に一輪車のバイクのフォルムは素晴らしい)を舞台に予定された負け戦に挑むのには手に汗にぎった。何より秀逸なのはクライマックスが、バッドエンドの皮を被った分岐イベント(メタルギアソリッドの拷問ステージのような、ゲームオーバーはなく成功しても失敗してもそれぞれに別のストーリーが待っているあれ)になっている、というところにカタルシスを持っていっているところだ。振り返れば、操作が単純なゲームほどオープニングムービーはやたらエモい、という鉄則はあった。オープニングで物語に一通りのケリがついているからこそ、我々は希望を持ってがむしゃらに壁に体を擦り付けながらロックバスターを撃ち続けることができるんだけど、そんなかんじ。まさにアリータが映画で切り取ったのは、観客ひとりひとりが自由に想像できるアリータの世界の未来を観せるためなのであって、その終わり方にとってもしびれた。アリータに続編は無いだろう、確実にキャメロンが続き物映画のあるべき姿を示したかったはずで、その皮肉が痛いほど伝わった。初期の名作アビスからすでにわかるようにキャメロンは潜水馬鹿で、その金を集めるために映画を撮ってるらしい。これからもじゃんじゃん映画を撮ってタイタニックを何個か発見しつつマントルの底まで行ってもらいたい、果たして地底人の顔は板野友美に似てるのかどうか