リモート日記 お遊び編

何を今更感もある昨今沸き起こる政治不信は日本の政治のあり方がターニングポイントに来ていることを示している。ポピュリズムとの対峙という課題は共通しているものの、それは欧米諸国が直面してるイデオロギーの揺らぎの問題とはかなり違う。日本の場合、民主主義への信頼はかつての成功体験や理想のモデルに裏打ちされているものではなく、歪みつつなんとなくうまくいっちゃった20世紀の技術信仰が完全にオカルト化している過程なんだと思う。

 

mechanic artsの訳語として技術という日本語が充てられた時点で今の糞詰まり感は決定されたようなもんだ。総合大学から完全に!完全に分離した形で芸術大学が発祥して、芸大生は粛々とお遊びを続けて今に至りなんだかんだでSNSのネタになった。アートという日本語は技術以外を消極的に意味するようになってから皮肉にもスクーラーとパンクカルチャー・アンダーグラウンドカルチャーの接続を容易にして、もし日本のアートの成功があるとすればその結果なんじゃないかな。

 

アーロン・S・モーア『大東亜を建設する』は戦前戦後を通じて日本が技術を使って合理的に統治・政治してきたことを示す。ありがちなテーマだとは思うけど技術官僚による戦前と戦後の接続という視点は外国人研究者ならではだろう。こんな本が10年以内に翻訳されていてありがたい。すごいな人文書院。こんな地味な本売れるのかな。しかしスリリングではある。

 

テクノ帝国の合理性はGAFAの台頭の頃には確実に付加価値を見出せなくなって、いまいよいよ、議事録なしの専門会議を要するほどのバイキンの不確実性を前にして完全に迷走するに至った。我々は多数決でうまくいった試しがない。何度か怒ったりはしてきたけどその都度うやむやになって巷にはロン毛野郎が増えた。キューティクル以上に大事なものなんて何もないんじゃないか。技術の副産物を享受する形で合意を受け入れてきただけだから。報道のなかで浮きまくってるように思えるトヨタの業績ニュースは確実に前世紀の福音だったし今なおハゲオヤジ共を敬虔な気持ちにさせるんだろう。でも確実に夢はあったな、出自を問わずばりばりサラリーマンになって技術戦士となって勝馬に乗った気になれば気分は良かっただろう。ドル円レートの追い風は無視しつつ、勤勉だとか自負してればよかった。技術こそがパン、技術こそがサーカス。だらだら年金もらっちゃってさ。うらやまっすわ。こんなふうに半世紀以上楽な思いして暮らして支給日直後にかき鳴らす1パチの玉音を聞いたら、旧日本兵の英霊も安心して成仏するんじゃないか。

 

確実に勤勉ではない自分はこれから何に価値があると信じたらいいのかわからない。行動監視上等だ、寂しいからな。絵でも描いて遊んでればいいのか。絶対変なことしないから!でもキスしたい。ふれあいたい。