アグー豚ネスラム

フジロックは軽音楽が舶来の産物であり、エンタメが小金持ちのためのものである、ということを呈し続けてきた点で意義深い。しかし無料配信と外タレ不在によってその意識の継承は絶たれ、寄せ集めの懐メロ歌謡祭に成り下がってしまった様子。サマソニのブッカーは差別化が難しくなったことで今頃泣いているんじゃないか。

開催を支持するにせよ不支持にせよ発言するだけ野暮であり、特に人気商売をしている連中は特に触れず配信を見てんのか同日開催の24時間テレビを見てんのかも隠しておいたほうが身のためのように思う。24時間テレビは企業群のCSR対策という超消極的動機と惰性で続けられている割にはあまらに大規模という奇妙な祭りなので、どちらかというと肝試しにはそっちのほうがおすすめできる。小銭集めのためのマラソンも今年は感染対策で誰もいないグランドをぐるぐる回るバカ丸出しの形式になっていて、なんと半分くらいアスリートが混じった10キロずつのリレー形式になっており、旬のタレントが長時間にわたり虐待される様を観察してカタルシスいわゆる感動を得ることはかなわなくなってしまった。日本の放送コードがまたひとつ文明化=西洋化されていたのかもしれない。子供の頃みて強烈に記憶に残っているのは、殿の寵愛を受けマーシーとともにトップスターになったダチョウ倶楽部が3人で走って後半上島竜兵の膝がぶっこわれ苦悶の表情を浮かべダラダラ歩いていた光景で、それが自分がはじめて目の当たりにした膝の悪い大人だった。テレビや我々の映画は基本びっこを映さない(外国映画は逆でびっこ映画というジャンルが存在するようにさえ見える)。ありとあらゆる障害がドラマを盛り上げるために利用されているにも関わらず、慢性的なびっこのキャラクターはその実数と比してあまりに少ない。自分も事故に遭ってから膝が悪く、そのような立場から雑踏を眺めると、しっかり歩けていないおじさんおばさんらで溢れていることに気づく。彼ら一人一人の歩調は確実に個々の思考に反映されて社会のハーモニーの一部を確実に担っているはずなのに、黙殺されるべきではない。あと毎年必ず目立ちたがり屋のヤンキーが自慢の単車で並走したりランナーに触るはたく殴る蹴るなどのちょっかいをかけるなども見所のひとつで、この社会の基音は濃淡はあれどヤンキーの騒音なのだということも実感できる。ヤンキーにアレルギーを持ってしまうのは一見健康なようで、とても生きづらい道なのでテレビを見る修行を通じて徳を積むことが望ましい。昭和のメーカーはテレビによく扉をつけていた。あれは明らかにテレビが祭壇に似たものであることを見抜いていたのだと思う。平成に入り、薄型競争の消耗戦を通じて日本の家電メーカーはどうなったか。その神罰はあまりに大きい。