惜しマイケル

仕事がキツいだけで世界はこんなにも灰色になるのか、積年の郵便局員への憧れは郵政民営化と共に崩れ去った、フォーエバーラブ内閣のせいでね…安倍内閣ってアホすぎて愛称つかなかったよね、それだけ安倍の存在とアイコンとしての情報量はデカい。ゲス不倫の流れでマッチのは愚か者不倫と称されることになってしまい滅茶苦茶面白い。ギンギラギンに5年さりげなく不倫のほうがいいと思うけど長いし。芸人は自分が不倫する前提でいろいろ名付けをしたほうがいいと思う。マッチはレーシングカーで報道陣を撒くか金屏風の前で中森明菜(オーノーオーイエスという曲は最近知ったんだけど、プラスチックラブを凌いで韓国で(訪れたソウルのクラブでは10曲に9曲がMUROという瞬間がありぶちあがった、けれど韓国は結構ストイックだと思う。フランクフルトの期待して行った外見が名古屋ドームに似てて超かっこいい某大箱は衝撃的なことにメインでレディガガがかかってて、自分がだらだらしてた端のがらがらのハードハウスのフロアは何故かスポンジで出来ててそこのマジョリティの様々な理由で子供っぽい人たち(家族はメインにいる)は規則的なキックにあわせてピョンピョン飛んで遊んでた。俺もいっしょにスポンジの上を飛びまくった、その日は一度ビーサンで行ったらバウンサーに追い返されてH&Mのスニーカー買って履いて入ったんだから)シティポップのアンセムになりうる竹内まりや提供曲だと思ったhttps://youtu.be/sOJ7GvDnLJw)といっしょに謝罪会見するかしてほしい。それか近藤エロ彦に改名してみんなからエッチって呼ばれてくれ

 

煩悩にまみれた人間がゲスの極み乙女、というバンド名を自ら名乗るような身も蓋もない神経は現代的で、自分の同世代やその下の特有のものと感じる唯一の類の強烈な嫌悪。髭ダンディズムは真っ当に髭を生やすかとにかくドブスの集団じゃなければ公認できない!!恥ずかしい!あとそのバリエーションとして、表裏を返すだけで元の意味を台無しにするセンス。少女ナイフというアカウントがそこそこバズり続けてんのみたときはゲロが出そうになった。東大王もヤバい。安倍晋三王とか、言えるか??

 

カセットで宅録してるけどなんだかよくわからないな、これであってますか、ってかんじ、たぶんあってない。別々に何回も録るってことが許せないことに根本の問題がある気がする。あんまりダビングするジャンルの音楽きかないんだよね、サンラとか実はめちゃめちゃ重ねたりしてそうだけど、テープ切り貼り時代の編集はまたそれで違うよさがあるな。けど自分がまし自分じゃなくて自分みたいな宅録してたらきっとウケると思う、ハハハって笑って屁をこいて忘れるくらいの。自分の気持ちの一部も分離して分子みたいな動きでどこかで彷徨ってるかもしれないし、やってみよ。

リメイクの高校教師でギチギチに体にシーツを巻き付けた(日本のドラマがやたら推奨する事後緊縛プレイの謎に誰か迫ってくれ)上戸彩のわきで数学の先生の藤木直人が死後分子になって宇宙で巡り合う確率を計算するというのがありましたね。何パーだか忘れたけどまあまああるってことで緊縛状態の上戸彩は感動するんだけどさ、それよりウンコの分子が早速下水管でたくさんぶつかってると思うんだよな、そっちのほうが感動する。潔癖症の人意外は何気なく使ってるけど同じトイレを使うっていうのは素晴らしい。バブルがあと10年続いたら絶対に皆に固有のトイレ権が認められただろうもしくは使い捨てトイレとか?

 

そう身も蓋もなさといえば、

群像の巻頭だった乗代雄介『旅する練習』を読む。若い作家のようでフォーマットが独特な印象だったけど今回も作家の主人公とスポ根の姪が東京から長距離歩いて目的地を目指しながら道中で自分は風景描写を姪はリフティングをするという地の文と二字下げが逆になっている紀行文という感じの変わったスタイル。しかしハイライトは「自分の関心に世界を引きつければ面白い」という姪の気づきで、この瞬間に風景描写が絶対に回収されないただの練習だ(純文学の入りは風景からでそこから幾重かの意味レイヤーが緩く繋がりをもったまま人物にフォーカスしていくというのが今も惰性で続いている※省略可 のお約束、しかしこの小説では練習として個々の独立した詳細な風景が投げつけられ続けていて読み手をパンクさせている!)と思って覚めてしまって案の定予感は的中、読者はその練習に付き合わされているだけで、それらのパートは斜め読みで構わない。それでも損なわれないこの小説の魅力はあるけれど、読後感としてはこれは物語をドライブさせる苦労や超不幸な出来事も含めて絶対に全て作者の現実の話であってほしい、ということ。むしろ現実と強制的に信じさせるリアリティが非常に出ている点で食わせ者なのかもしれない。でないと練習につきあった甲斐がない。

小説らしいものが読みたくなって戸川に薦められたデニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』(海とか乙女とか、こういうタイトルだと自分は絶対買わないから、なおさら薦めてくれた戸川はいいやつ。身銭を切るときにこそ貧乏人は無意識な偏見が出る)のなかから「ドッペルゲンガーポルターガイスト」を読んだ。才ある詩人のエルビスに纏わる陰謀論への統合失調気味の熱意が詩作の情熱と絡み合い主人公の教師が双方に惹かれていくという、ものすごく上手な話だった(統合失調に至る人間を何人か見てきたけれど、クリエイティビティはその過程で最も発揮される。ひどくなると日常は詩や小説のようになるのに創作は不思議なほどできない。彼らの詩は詩的ではないと春日武彦も指摘していたと思う)。はっとするのは、統合失調気味の意味の連鎖こそが小説の妙だということ。実験的な試みがいくらなされようと、偶然を必然として説得させられるという快楽はフィクションにおいては最も麻薬的な手法であることには今後も変わらないだろうな