シャコの海鮮物語

親戚や知り合いの子供らがスクスク育つ以外は紛うことなき終わりなき日常を生きているうちに時すでに師走、年末の紅白ではなんとマツケンサンバが見られるという朗報が。振付師のマジーは生きているのか?加齢や借金苦などでバックで出れないんだとしたら代役は是非ともクリス松村(クスリのアナグラム、かつ顔色劇悪でヒヤヒヤするオネエ)でお願いします。

 

休みの日は主に映画。ヒューマントラストでやってるマレーシア日本合作の『カムアンドゴー』に期待をかけたものの、

 

※ネタバレ有

このまま!シェイクシェイクシェイクヒップ!(米米クラブは上手いこといったJAGATARAであったという思いを強くしている。しかし同時代のプラスチックスやハルヲフォンもなんかそんなかんじだし、もしかすると真面目にポップスやるとなるとダンサーやら不審者やらで一通りの頭数を揃えるのが当時の常識だったのかもしれない。景気いいよな)

 

そうそれで期待をかけたものの、これが体調悪くなるくらいストーリーが破綻している。面白かったのは、稲川素子事務所風ではないリアルな就労者が各国たくさん出てきて、まあまあ現実感のある生活を送っているところ、ここまではすごい。しかも日本語学校教師やハーフの生きづらさまでカバーしている目配せは素晴らしい。外国人就労のノンフィクションだと思って涼しく眺めていれば2時間半はあっという間に過ぎる。しかし非常にムカつくのは、群像劇なのに物理的ニアミス程度でしか皆がなかなか錯綜しないし全体の持っていき方の傾向性共通性も特に見出せない。令和の時代にこんな投げっぱなしの子供だましは良くない。マイノリティ映画はこの手の稚拙さにびっくりすることが多い(ムーンライトなんてそのまま異性愛に置き換えたら陳腐すぎてゲロでます)。それだけでなくストーリーの中心を、よりによって出張中の身なりのいいマレーシアのエリートサラリーマンと日本人家出少女のロストイントランスレーション風のロマンスに据えてしまっているところが何より最悪。極めつけはこの群像劇におけるトリックスター千原せいじ(芸人だけあってペルソナが確立されており演技はめちゃめちゃいい)演じる警察官で、ヨメに外国人の彼氏がいることを見破り、冒頭の白骨化死体事件を解決したその会見で世相を斬るという立場や回収タイミングの直接加減が見ていて恥ずかしくなる。孤独な時代だ、とかいう千原せいじまんまの薄めの事件の総括、いやいや嫁さん外国人と不倫して孤独打破しとるやんけ、もっと抱いたげて、という感想しか残らない。おれが潔癖すぎるのか!?

 

いっぽう最近はピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読むのに時間をとられている。さすがに5年くらい今の仕事続けてるだけ給料が微増しており、その分最近できるようになった新しい贅沢は「とりあえずピンチョンやマッカーシーの訳が出てたら買う」ことくらい。ピンチョンを読んで長期雇用の恩恵を享受しているのはなんだか複雑な格好だけれども。デビュー以降一貫してピンチョンの群像劇には、全ての人間が真偽入り混じるサブカルチャーを共有しながら、時にドラッグの力を借りて共感覚的に繋がっていくという特徴がある。その点で長編であることの妙味には欠けるものの、ピンチョンの関心はストーリーを綺麗に紡ぐことではなく、現代資本主義社会の主体性のなさと勝手にのっそりと向かいつつある方角を手探りで示す(齢80を超えてなお!)ところにあるのだと思う。今作はテロ前後の没落ITバブル界隈がサイバー空間へ逃げ込む話。コロナからのメタバースっていう今まさに読んでってかんじすな。日本人でこういう発散する長編を書いている人いないしな、ゲーマーっぽい宮部みゆきあたりが案外こっそりやってんのか、しらないが

インターネットが何なのか、ということを大なり小なり問わずして文学が成り立つのかとさえ最近思う

 

昨日はゴア映画のオールナイトに感涙。だいたい辛い思いをすることが多い朝5時からの4本目が絶妙なインディー感で心地よくなった。出だしからボートのエンジンの調子が悪くて無人島に漂着すると…というくだりでなぜかしっかりエンジン全開で島にむかって爆走してて、島には地獄のマイスター軍団(幹部だけなぜかゾンビ、一部はなぜか忍者)、彼らは軍服にアルミホイルの仮面、アルミホイルの剣、油性ペンの髭で裏切り者を処刑しまくってる、というマッドマックスの思い出を噛み締めながらでなければ処刑シーンを除いては目も当てられない

少ない予算でも週に一度しっかりアテレコ、殺陣、爆破を繰り返す戦隊モノのクオリティはすごいな、と思いつつ、それらが基準点として相互理解されているからこそ世界のインディゴア映画は思い切った捨象や稚拙なミスを悪びれもなく大っぴらにできているのだと思う。そんな細かいこと気にする暇あったら首モゲたときの血飛沫を一滴でも増すべきだろうから。全世界のオトコノコのチームプレーってかんじで平和な気持ちになった。満員の会場は9割以上がほとばしる男性で小便器がパンクしてたしね

 

おいしい牛乳飲むのだDUNE

4月になったら暇な部署に異動ができそうだ、というぼんやりとした希望を抱きながら、YAMA Qがマジで呪われてる家の様子を間延びした声の調子で実況してくれる新作動画をアップすることをだけを心待ちににつつ、時があっというまに経つのを耐える本当に虚しい日々。そのあいだに存命の祖母はしっかり歳をとってヨボヨボになっていることだけが後悔だ。自由な時間に必ずにしたいことといえば積んである本を読むことくらいだから、懲役刑を喰らうのが向いているとつくづく思う。鉄砲玉にでもなろうかな。

とはいえ先週は忙しすぎて喰らった。深夜に仕事を終えたら池袋の大都会くらいしかまともな食事(というのは決して味がちゃんとしているということではなく選択の自由があるということだ、外食の醍醐味の大半は着席した瞬間に何を食べるか考えられるところにあるのだから、牛丼屋やラーメン屋は論外)ができる場所なんか夜が弱くなってるこの辺りにはなく、仕方なしに大都会でメシをくらうんである。そこでショゲた気持ちでいろいろ食べ飲みしてたら昭和の曲しか流れない有線から「あなたの夢を〜諦めないで〜」という曲が流れてきて染みてしまった。別に夢なんてないのにね。80年代歌謡はもれなくエコーが深くバスドラムが重くて、やけに泣けてくる。ラジオで細野晴臣が自分でつくった吉田美奈子の曲をプレイしたあとにしきりにバスが重いんだよ…と言っていたことは忘れられない。バスだけ軽かったとして今どうにかなるのかよって話だ

 

KKが出国時にジーンズメイトで売ってそうなニットの隙間からチラ見せしていたTシャツ(にしてはリブの幅が狭すぎて、グンゼのババシャツみたいだった)は、ダースベイダー柄だったらしい。偶然かもしれないけれど、正しい心を持った国民のオモチャかつ人気者のマーコ・スカイウォーカーを連れ去るには非常に気の利いたチョイス。吉川晃司は長年保持していたKKといえば、の座を譲渡していま何を思っているんだろうか。本当にお疲れ様でした。今日は戸川がバイトし始めてなおさら居心地がよくなった近所の飯屋でずっとライブ映像が流れていたけど、吉川晃司には本当によくできた曲が多い。どーん!すとっ!まいらー!恋を止めないで〜!なんてクネクネしたクソキモ中年が歌ってたら誰も奴の恋なんて止めやしないんだからさ

容姿やゴシップ込みで楽しめた歌謡曲の豊穣な世界はどこへ行ってしまったんだろうか。最近のヒット曲は一面的で非常に恥ずかしい、それを知っているがゆえに受け手はアニメソングの主題歌として受容したり、TikTokでクネクネするしかないんだろうとさえ思う。

 

DUNEはあまり評判が良くなかったから不安で気合を入れて池袋の正規のデカい画角で流すところで観てしまったら想像以上にひどくてドツボで恥ずかしい映画だった。ワイドとフルスクリーンを無秩序に切り替える様はパワポを作り込んだスタートアップ社長の業績見通しのプレゼン資料のコンマリズム溢れる美に極めて近い。過剰な上映テクノロジーを駆使した冒険は、しこたま金を集めた商業映画の宿命だから仕方がない、とはいえ世界観は目も当てられないほど陳腐すぎて、ナウシカハムナプトラとマッドマックスとナショジオの動画を組み合わせたような、オマージュというにはほど遠い薄ら寒すぎる半端な既視感の連続。自民党に怒る暇があったら少しはこっちに怒ったほうがいい、自民党は私から一晩で3000円と2時間半を奪ったことは一度もないですよ、おしっこも我慢したのに台無し

創作、特にSFというのは決まり切った型のようなものがあり、それらのほとんどが半ば無理矢理であればシェークスピアのどれに近いかというクイズでは満場一致の解が出るものであることは藤岡弘探検隊を卒業できた我々であれば自明なんだけど、わずかなフェチを許さないほどのクソみたいなことの運びだった。主人公サイドは帝国のなかで芽を出しつつある領主で、帝国から突き放されるエディプス的なラインのなかで見せられる予知夢と短剣によるチャンバラ(サンドワームの歯からつくられたという特別な剣による殺陣は序盤とクライマックスで型がまったくいっしょ、舐めてんのか)の連続は見るものに感動の余地を与えず、色々あった風の夢で観た女を探し求める(女はみつかった、ゲリラ軍のモブ家来として!女ボスじゃないのかよ!ありえない!!)やってる風の主人公の王子がいろいろあった風の逃避劇を振り返り最後にしみじみと呟く「デザートパワー…」というヘキサゴンファミリーも驚きの白痴台詞がこの映画のくだらなさの全てを体現している。レビューでは物語の急展開を指摘するものが多かったが、それは確かに細部の作り込みがモノをいうSF映画にとっては痛手ではあるもののさほど気になるレベルではない。むしろ最も頭がおかしいのは砂漠に巣食うサンドワーム(これはまんまナウシカのオーム風の生き物である、というメタ理解を観客に委ねている点だけとってもこの映画はおこがましい)の作り込みが本当にひどくて、巨大化したヒルそのものの造形であ話の展開にはまるでその生態が絡まないでただただ歌を忘れたクジラまんまの生態でのうのうと捕食を繰り返す畜生にとどまっている。そんなチンケな生き物から難を逃れただけで砂漠の脅威を理解するもんじゃない。海よ俺の海よとか言いながら光進丸を火事で失ってショックで亡くなった加山雄三の人生に謝れ!皺寄せだなぁ〜

 

また、シリーズ物であるからカタルシスは不要、という甘えも決して許してはならない。予知夢というフォーマットでコンテクストや待ち受ける運命を示す、というのはストーリーの爆速な展開とはマッチしていて器用なんだけど、とはいえ何らかのケリはつけるべきであって、デザートパワーへの畏怖なんてのは開始3分で巨大スクリーンを見つめた全員がわかってること、何をいまさらなんである。本当にクソ3つぶんほどのホドロフスキーを喜ばすためだけに存在する映画だった、ホドロフスキーごと全員くたばれよ

 

壮大なストーリーの一部を切り取る、というギミックで近年はっとしたのはジェームズキャメロンのアリータバトルエンジェルだった。原作の漫画を観ていないから知らないけれど、メタ理解に頼らない純粋なオリジナルの世界から2時間の切り取るセンスがとても良い。アンドロイドのアリータがなにかと欠損した街(特に一輪車のバイクのフォルムは素晴らしい)を舞台に予定された負け戦に挑むのには手に汗にぎった。何より秀逸なのはクライマックスが、バッドエンドの皮を被った分岐イベント(メタルギアソリッドの拷問ステージのような、ゲームオーバーはなく成功しても失敗してもそれぞれに別のストーリーが待っているあれ)になっている、というところにカタルシスを持っていっているところだ。振り返れば、操作が単純なゲームほどオープニングムービーはやたらエモい、という鉄則はあった。オープニングで物語に一通りのケリがついているからこそ、我々は希望を持ってがむしゃらに壁に体を擦り付けながらロックバスターを撃ち続けることができるんだけど、そんなかんじ。まさにアリータが映画で切り取ったのは、観客ひとりひとりが自由に想像できるアリータの世界の未来を観せるためなのであって、その終わり方にとってもしびれた。アリータに続編は無いだろう、確実にキャメロンが続き物映画のあるべき姿を示したかったはずで、その皮肉が痛いほど伝わった。初期の名作アビスからすでにわかるようにキャメロンは潜水馬鹿で、その金を集めるために映画を撮ってるらしい。これからもじゃんじゃん映画を撮ってタイタニックを何個か発見しつつマントルの底まで行ってもらいたい、果たして地底人の顔は板野友美に似てるのかどうか

ジュリーのフランス語版LPをお土産にもらいました

これまで死ぬほど盛り上がっていたソ連の脅威やらユダヤ陰謀論やら口裂け女やら、大きな物語を共有し得ない我々をよそに、通信コストが限りなく逓減パケホーーーーダイした世は大コンテンツ時代を迎えており、概観してどうなっているかというとエロと暴力しかない。これまでゲームをしていなかった淑女がたもPUBGをしているように思う。信長の野望ってこういう世の中だったような気がする。


そんななか佐藤究『テスカトリポカ』が直木賞サイゾー的世界を地で文学化したような、グローバルな裏稼業のサプライチェーンを展開するやくざものの話。おもしろい。やくざモノとグローバルヒストリーの親和性の高さに気づかされる。もともと不安定な外的要因がちで特に暴対法以降やくざは地下化してそれ自体も副業化せざるを得ず、複数のアイデンティティを有している。小川さやか『その日暮らしの人類学』で説明されているナイジェリアの古着商にとっても近いマインドがある。柔軟に強く生きている人たち。スクエアとヒッピーが文化を相互に盗用してきたように、身近な存在でなくなってもなお我々も完全なるアウトローに憧れ続けているんだろう。六本木のイタ飯屋を経営したニコラが政界に芸能界に地下人脈を広げて暗躍するうそみたいな昭和史、ホワイティングの『東京アンダーワールド』はめちゃくちゃ面白い、ししかも暖簾分けした店は未だ健在らしくて戦後と現在の地続き加減にぞっとする、昭和は何度でも恥ずかしながら帰ってくる。平成がすでに顧みられなくなってきているのも非常にクールだけれども

 

ヤクザ映画の大半はヤクザしていない時間をほとんど描写しない。それは映画程度のプロットの情報量ではそのような筋書きよりも、追う者と追われる者、狩る者と狩られる者が危ういバランスで反転するか、警察やレプリカントといった水と油のような組織との論理の親和性を見出すか、といったあたりの妙が弁証法的に優先される。マッドマックスの肝は往復にある。あれは来た道を律儀に戻るから素晴らしい。先日みたのは韓国映画「悪魔を見た」。テンポは悪いけれど復讐に燃える暴力警官イ・ビョンホンの顔芸は素晴らしいよな。日ハム顔だと思う。イモータン・ジョーも日ハム顔。新庄が整形を重ねた結果日ハムの顔になったことからわかるように、日ハムの経営層は顔を重視しているんだと思う。ゆうちゃんはちょっと顔薄すぎたかな。キャラは最高だった。これからも減りゆく皇族の代わりに国民のオモチャでいてほしい

過去の追われたり追い返してきた人たちをくどくどと紹介するグレゴワール・シャマユー『人間狩り』、マイク・デイヴィスが帯書いていたから買ったけれど、飲み屋で話きいたら30分くらいで終わるような内容が散漫で冗長な羅列されており、つくづくフランス人の書く歴史モノは苦手だと思った。論争史もまとめ考察もないテーマ史は本当にクソだ。最近Twitterでこの本の写真つきの真面目なツイがたくさん目につくけれど、これはどうなんだろうか。思えば読んだ人の感想はあまりなかった気がする、いかんですな

 

最近あまり小説を読む気がしない。あまり面白いのにもあっていない気がする。

モーリタニアン黒塗りの記録』が映画化とともに文庫化された。これは向こうで新刊のときにピーター・バラカンがラジオで紹介していて何年も前だけれど鮮明に覚えていて無性に読みたかった。作者はテロを計画したのかしていないのかわからないけれどとりあえずグアンタナモに勾留されたモーリタニア人で、尋問を受けながら覚えた稚拙な英語で日記を書くんだけど、それが公文書になったときには結構な黒塗りで、バラカンは黒塗り稚拙な文書がセンセーショナル読み物として不思議な魅力がある以上に米軍が「涙する」というところを黒塗りするところの不思議さにあきれていた。グアンタナモでやりたい放題の米軍だってやっぱり泣かれたら困るんだ、と思うと可愛い。

ヒューマントラストシネマで「スイートシングス」と「ベッキー」を観た。スイートシングスはアメリカインディ映画で鉄板のローティーンvsダメな大人という話だけれども監督の息子娘とそのへんのスケーターという素人演技が本当に良かった。
ベッキーはネオナチへの復讐モノ、なんだけど、別に悪役がネオナチでなくても良くて(雑種の犬が嫌いくらいにしかストーリーに落とし込まれていない。あとは財宝の存在を匂わせるくらいで欲求不満に)、ナチ要素薄めで残念。話自体は面白い。シリアスにつくったホームアローン

 

筒井康隆の復刊が続いている。『東海道戦争』を買った。はっとする社会洞察はあるがどれも読後感が近く続けて読むのはキツい…

ラファティベストコレクションの刊行がはじまった。こっちは楽しみ。

 

「選択」という雑誌が面白い。ずっと気になっていたところ新聞解約の弾みで契約してしまった。定期購読しかできない怪しさで、各方面の記者が寄稿していて政界から大企業から海外情勢まで大小様々な噂話、大体が明示されたソースはないがまあまあ本当っぽい、というか本当っぽいことにこそ価値がある、紙媒体でこそのすぐに知るべきではないが前もって知っておいたほうがいいようなタメのあるニュース。本当に面白い、誰か興味あったら教えて下さい。サンプル手配しますので

 

Yama Qという配信Youtuberの家がマジで呪われていてお化けが出ている。ポルターガイストのキレと間に完璧な美しさがある。壁がガンガンいってから風呂のドアがガッ!ってなってから即、壁の音まじりにババアのうめきが始まる。フェイクだったらこんなに綺麗なシーケンスにはならないはず。後に日本のホラーはYama Q前後で区切られることになるだろう。これは福音でしょうね

事故物件住んでみた。#8 2021/7/14深夜 There's a ghost in my house. - YouTube

ドライブ・マイ・カーのネタバレ集成

村上春樹は真面目に読んでいるわけではなく、海辺のカフカくらいから自分のモノマネで文体が窮屈でいまいちになっていっているな、位の印象しかないが、俗に言うハルキストという連中、主に飲み屋で有意義な小説についての情報交換中にカット・インしてきて

村上春樹が一番好きだという

・小綺麗でアイビールックがちで

・ナルでキザで説教じみた話し方をする

・年いってんのに性欲がしっかりあって

・男尊女卑的で

・所得が高そうな

おじさんたちに、これが俗にいうハルキストか、と辟易したことが幾度かあり、その都度段階的に村上春樹とその周辺コンテンツの一切を遠ざけるようになってきたが、車の映画は見ることにしているので、ドライブ・マイ・カーをみた。

3時間もあるしさすがに、良い画はたくさんあった。特に会話や台詞のカセットテープが再生されないときにだけたまにながれる石橋英子(ウンベルト、カノウとならぶ世界三大エーコのひとり)の音楽は非常に美しくエモ的だ。しかし機能しきっていないギミックやバランスを欠いた悪い裏切りも目立ち、もっときれいなストーリーにできたのではないかと、かなりもどかしさはあった。

その稚拙さは目をつぶることはできるのでとりあえず置いておいて、

 

〇良かった点と気づき

・赤の欧州車がセクシー

・主人公の自身の人生へのコミット度合いとパラレルで、赤のセクシーな欧州車を前半は引き後半は主観の画で存分にみせてくれる

岡田将生はV6の岡田クンではない

岡田将生は若いころの流れ星ちゅうえいに似ていてかわいい

・ドライバーという仕事はメカニック的な印象から男性向きとみなされていたが、実はケア労働の側面が強く、女性のほうが向いているかもしれない

 

〇問題点とこの映画が受容されることの危うさ(私が原作にあたっていない限りにおいて)

まず、主人公の舞台俳優は典型的なハルキストである。これは村上春樹原作の映画化だからというレベルではなく、舞台台詞やその台本にまつわるコミュニケーションが多く、意図的に書き言葉的な発話を志向していることに起因するが、そうすると何が起こるかというと、前出の私が飲み屋で幾度となく絡まれたウザい中年に酷似することになってしまうのだ。初の公認ハルキスト。

ハルキストとの出会いは人それぞれであり、たいして被害をこうむっていない大半の人間にとっては問題がないかもしれない。しかし私はこの映画の問題は2021年においては、そこにあると思う。この映画の感動は、高所得・文化資本の男性性を手放しに肯定することによって得られる仕組みになっているからだ(これは最後に再確認する)。

ストーリーはセックス・モンスターの脚本家の妻を亡くした舞台俳優兼監督が2年後に穴兄弟の岡田クンと育ちが悪いが運転がうまく寡黙な運転手に地方で依頼された滞在型の演劇製作現場で出会う。演劇は主人公が得意としえきたチェーホフの戯曲(ワーニャおじさんをソーニャという女が生きろと励ます話、という点だけおさえておけばよろしい)を国際色豊かなメンツで各々の母国語で演じるというもの。セックスに起因するアクシデントが諸々起こりつつ物語は進展し、そのつなぎで主人公の乗る車で嫁のカセットに吹き込まれたソーニャの台詞、それに練習のために応える主人公のワーニャの台詞が補う。観客は人生のだいたいの出来事をチェーホフで学ぶことができるし、主人公もチェーホフのテクストの深遠さを認めているからこそ言語を超えたコミュニケーションの困難さを敢えて取り入れライフワークとして対峙し続けている。主人公は岡田クンのセックス・モンスターに纏わる思い出話や、互いに死を乗り越えたことで共感することになる運転手の過去の話などの告白に助けられ過去と向き合う覚悟が生まれてくる。でも自分のかわりにワーニャ役に抜擢した岡田クンが飛んで舞台の準備がまずい状況に。悩んだ主人公は運転手の女に故郷を見せてくれと頼んで、期限の2日間でめっちゃロングドライブを女にさせたあげく、運転手の女が見殺しにしてきた母が眠る地元に訪れたところ、そこで過去を清算できた女の一言に確信をつかれ泣いてしまう。つまり運転手の女は主人公にとってソーニャであり、それにより励まされ男は舞台で本当のワーニャになることができた。ここまではまだ話はきれいだ。問題はここからで、運転手は独力でワーニャになれた強い人で、なおかつソーニャのように自分の地元で主人公を励ました尊いミューズである。にもかかわらず、励まされた男は速攻で女を抱きしめて、頭をポンポンしながら人格が変わったかのようにお互い頑張るしかないという類の説教する。さっきまで泣いてたににも関わらず。こんなヘボい瞬間は目も当てられない。男のどうしようもない弱さについての話なのか(それにしては岡田クンに寝取られながらの勃起力には目を見張るものがあるが)?だとしたらリアリズムの極致だ、だってこんな最悪な勃起ハルキストなんて、はいてすてるほどいるからな。この映画で存在を公認されてよかったねおじさんたち…とエンドロールを前アイロールしそうになったがなんと話にはまだ続きがある。

なんとなんと、女はいいとこなしのこの男(しかもこれまでライフワークとしていたチェーホフの戯曲の意味は今さっき理解したばかり)の芝居(役のソーニャに再び励まされるさっきのメソ男)を見て感動するわけがないだろうに(あくまで女は仏頂面だからわからないが、そこがエクスキューズ、うまい)、男と人生をともにする決意をしてその後も韓国で男の車を運転することになる!!!なぜ、いいとこなしのこの男と人生をともにする決意ができるのか。さっきの情けなさを帳消しにできるくらい、純粋に芝居に感動したのであっても、その感動は、主人公がよくわからないままチェーホフという題材に飛びついて蓄積してきた芝居の力のみにあると断定せざるをえない。それ以上の感動はここでは得られるはずがないのだ。なぜなら男にチェーホフを理解させたのはその女自身だからだ。アッシーに徹する彼女は男からは何ももらっていない。そもそも女が男に好意を抱いているのは、高価な欧州車を大事に扱っている点のみにおいてである。また、そもそもその男が女を必要としているかも怪しい。チェーホフの万能性には鼻が利いていたわけだし、女の地元がセラピーになることもその嗅覚ゆえの行動かもしれないからだ。女は利用されただけで、男のずいぶんと高尚なオナニーをみせられただけの可能性もある。

ここまで追ってきたストーリーからわかるのは、この映画で感動するためには以下の価値観を共有していなければならないということだ。これらに乗ることができなければ、ラストは理解不能になる。

・女は尽くす生き物で、男からはなにも返さなくてよい

・女は無教養でも時に確信的な気づきを得て、男に与える。男はそれに励まされ、すぐさま説教してもよい

・男が高級で上等な車を所有するなど丁寧な消費をおこなう姿を見せるだけで、女は十分に人生を添い遂げる好意を抱くことができる

文化資本を蓄積した結果として高所得を得る男は、ケア労働に従事する低所得の女の人生を左右してよい

 

この映画が評価されるだけ、次の選挙でも自民党が案外しっかり票を取るんだと思う。

 

はやめのバビロン

体調が悪いかも、と思うたびに怖いからAmazonで簡易検査キットを買ってじゅるじゅるやっている。仕組みは知らんけど水滴数で量が規定されて浸透圧でチェッカーが上がっていく仕組みとかはなんとなく理にかなっているようで、正確性はさておき安心が3000円で買えるなら安いもんだし良い商売なんだろう。最近はうかつに体調も悪くなれない、というか自分の調子を気にかけるようになったらどっかしら体調が悪い気がしてくる。そんなときはそのへんをふらついているジジイに3000円握らせておれを安心させてくれ、と言っても多分おなじくらい効果はあるんだと思う。3000円というのが肝要、資本主義リアリズム

 

栗原康「サボる哲学」

NHK新書でこんなの出していいのか、とびっくりしたけども中身は期待外れ(NHK新書自体、良い本は多い…奇妙なのは講談社新書が最近NHKの取材をまとめた新書をいくつか出しているところ。テレビよりも細かくはやく進むから良い)。アナキストを自負する著者の実践というのは街猫を大枚叩いてみんなでケアしましたよ、あと気の赴くままにいきなりステーキ食べるんですわ、自発が大切、ということだが、自発の実践例としてはその射程が微妙か。加えて現代のうまくいったケースとしては高度成長期の大阪中小企業の組合運動例くらいときたもんだから、奴隷船、海賊、打ち壊しという歴史的説明の文脈をつなぐにはあまりに突飛だ。産業の高度化以前で説明が閉じていて、現代人の生きづらさを提示するには片手落ち、なんか他人事(大学で教えて生計を立てていることも要因かも)、要は旧態然としてかつ雑なんである。ディストピア埼玉(流行り言葉で使っているのではなく(いまは都合が悪い事態にだだをこねるときにディストピアだ!といちいち叫ぶのがブーム)本当に本当の意味でディストピアだ。埼玉に住まう人間の一定数は東京からの距離で金銭的事情から消極的に埼玉を選択しているにすぎず、それは千葉や神奈川でもいっこうに構わなかった、そんなのがクリティカルマスいるところにまともな共同体なぞ成立し得ない)で暮らす彼の将来の幸福を祈りつつも一読者として、これをもって自発的に見限るこことしたい、いろいろ書いているしすごくポジティブな影響力の波を生む人なんかなあとは思うが

 

ブレディみかこの新刊

アナキスト的な態度とケアの関わりの両立について。こっちのほうがなんだかまともだし多様な分野の最近の研究動向に目配せをしている。幼稚園の先生なのに、真面目でパワーに溢れるひとだとおもう。

 

ハゲのパラドックスというものがある。髪の毛を一本抜いても禿げないのに、それを繰り返しているといつか禿げてしまう、というギリシア人が奴隷に数時間の労働(彼らは満員電車に乗らずに済んだ、という点で奴隷の定義は遡求的に変わってしまうんじゃないか、あと日が暮れればピッチも持たずに闇に消えてなくなれる、というのもかなり自由民サイドだ)を強いて得た時間でユリイカしたんか知らんがそんな話で、いま国中が少子化まっしぐらななかで、毎日、素人物を含むたくさんの女性がAVに出続けている。どうせばれないから、という日々がこのまま進むと、AV女優でない女性はいなくなってしまうのではないか、いつか身の回りにもAV出演の津波が押し寄せてきてしまうのではないかと急に心配になってきた。AV界の仕手株師として有名な深田えいみという人はものすごく顔が凛々しくて、五月みどり系アップデートのこれぞ令和って顔のようなかんじがする。あれは整形なんでしょうか、だとしたら重要な未来の設計図の埋め込まれているはずで人相を真面目に読み解くべきだし、彼女が令和X年から来た未来人なんだとしたらコロナの終息時期をはやく教えてほしい(あとマサコはこの調子で大丈夫なのかとかも)。それだけで波だって海だって物語性をなくすはずだ

あとAV女優がやたら小型犬を飼っている謎を夢の中で解き明かしたんだけど、忘れてしまった、なんだったかな。思い出した。彼女たちは本来値付けが困難なはずのセックスの見せ物を金に変えているから、金から慈愛を生み出して倫理のバランスを保っている、あれは逆反応ブリーディングを実践しているということなんだ

 

最近はメキシコ、ハイチあたりの呪術的な話が気になっている。暑い日が終わる前にいろいろチェックしたい所存。テスラトリポカをいま読んでるけどめちゃくちゃ面白い。イモトの冒険の総括をしていると思う。

 

借金しまくって株の大勝負に出たら超紆余曲折を経てきれいにトントンに落ち着いて感動した。つまり利息を捻出しなければならない。明日も労働!

アグー豚ネスラム

フジロックは軽音楽が舶来の産物であり、エンタメが小金持ちのためのものである、ということを呈し続けてきた点で意義深い。しかし無料配信と外タレ不在によってその意識の継承は絶たれ、寄せ集めの懐メロ歌謡祭に成り下がってしまった様子。サマソニのブッカーは差別化が難しくなったことで今頃泣いているんじゃないか。

開催を支持するにせよ不支持にせよ発言するだけ野暮であり、特に人気商売をしている連中は特に触れず配信を見てんのか同日開催の24時間テレビを見てんのかも隠しておいたほうが身のためのように思う。24時間テレビは企業群のCSR対策という超消極的動機と惰性で続けられている割にはあまらに大規模という奇妙な祭りなので、どちらかというと肝試しにはそっちのほうがおすすめできる。小銭集めのためのマラソンも今年は感染対策で誰もいないグランドをぐるぐる回るバカ丸出しの形式になっていて、なんと半分くらいアスリートが混じった10キロずつのリレー形式になっており、旬のタレントが長時間にわたり虐待される様を観察してカタルシスいわゆる感動を得ることはかなわなくなってしまった。日本の放送コードがまたひとつ文明化=西洋化されていたのかもしれない。子供の頃みて強烈に記憶に残っているのは、殿の寵愛を受けマーシーとともにトップスターになったダチョウ倶楽部が3人で走って後半上島竜兵の膝がぶっこわれ苦悶の表情を浮かべダラダラ歩いていた光景で、それが自分がはじめて目の当たりにした膝の悪い大人だった。テレビや我々の映画は基本びっこを映さない(外国映画は逆でびっこ映画というジャンルが存在するようにさえ見える)。ありとあらゆる障害がドラマを盛り上げるために利用されているにも関わらず、慢性的なびっこのキャラクターはその実数と比してあまりに少ない。自分も事故に遭ってから膝が悪く、そのような立場から雑踏を眺めると、しっかり歩けていないおじさんおばさんらで溢れていることに気づく。彼ら一人一人の歩調は確実に個々の思考に反映されて社会のハーモニーの一部を確実に担っているはずなのに、黙殺されるべきではない。あと毎年必ず目立ちたがり屋のヤンキーが自慢の単車で並走したりランナーに触るはたく殴る蹴るなどのちょっかいをかけるなども見所のひとつで、この社会の基音は濃淡はあれどヤンキーの騒音なのだということも実感できる。ヤンキーにアレルギーを持ってしまうのは一見健康なようで、とても生きづらい道なのでテレビを見る修行を通じて徳を積むことが望ましい。昭和のメーカーはテレビによく扉をつけていた。あれは明らかにテレビが祭壇に似たものであることを見抜いていたのだと思う。平成に入り、薄型競争の消耗戦を通じて日本の家電メーカーはどうなったか。その神罰はあまりに大きい。

若者のすべすべて

人間は本性的に罪深い生き物である以上に(特にオスは通り魔を起こすわ寿命はちょっと短いわで最悪なできそこないですわ)、無目的に動物を殺傷しながら生きて屁をこきクソをオリンピック水泳会場へ向けて垂れ流すのみならず、資本主義が拡張され尽くして市場がグローバル化して以降、否応にも他者を害する行為に労働者消費者として巻き込まれざるを得ない。懐事情に応じて適当に選んでいる食材や服は生産流通経路において必ず誰かに劣悪な労働環境を強いているはずだ。そいつらが自分より幸福な生活を送っているかもしれないが、自発的に飛び込まないであろう労働環境を消費することで強いている時点で暴力的といえる。おめでたく小金を蓄えてフェアトレードなどに敏感になり無農薬野菜を摂取できている奴らもまた唐突な煙たい説教やロックフェスに集い大声で騒ぐなどして絶対に周囲に暴力を振るっているんである

実家で畑を手伝いながらスマホして生きていれば大丈夫か、というとそれもまた危うい。ネットは本当にいろんな人達が傷つけあっている模様。美人の顔面やそれに付随しがちな充足した日々の報告は人の心を深く傷つけることになる(アナルファック愛好サイトもまた然り)。また、デジタル経済は基本的に人々の時間を奪おうとしてくる殺人企業が割拠していると考えて間違いはない。最近ゴールデンカムイが無料で公開され血眼になり読んでいる人達を電車でたくさん見かける(そのたびに脳内ではオリラジの声でカムイ伝カムイ伝カムイ伝伝ででん伝!と再生されこっちは気が狂いそうだ)。無料の魔力に囚われて脳の嗜好がバグってそんなの読まされていること自体、可哀想だし、なんで無料かっていったらそのマンガのプラットフォームに滞在する動機付けを出版社は行いたいからだろうそのエサにひっかかる愚かしさも悲しい。かねてからゴールデンカムイが読みたくて、なおかつ購入する金がない人間だけは救われているが、それ以外の大部分の人達はクソくだらない紙芝居に貴重な余暇を供出させられていることになる。ゴールデンカムイ無料公開は軽度な大量殺人事件だった。目を覚ませ!!!

 

もう他者を傷つけずに生きることは無理だし、ゴールデンカムイを読まずとも今日という日を過ごすことは自分の死を確実に近くに手繰り寄せていることになる。喫煙者は悲しいかなさらに近くに!そんなことを考えて生きることは教会や学校の外にいる我々にとっては現実的ではなく、腹をくくってある程度の線引きをして割り切るか、無視するしかない(または人生をマトリックスのような虚構の世界と信じ込むこと、これは反証できないのでおすすめだが外形的にはエクモと相似形なのが微妙なところ)。

 

だからといって触るものみな傷つけてよいという話ではない。モデストな態度として求められるのはある程度の思考停止だ。宗教にすがるか(マトリックス妄想も仏教思想に近い)、法律にしたがうか(ロックダウンはすべきだと思う。ロックダウンの範囲内で清らかに人を傷つけて生きることで人間の尊厳を回復しよう)、それか形骸的であっても遂行可能な善行を繰り返す(コンビニ募金でもサーファーなら浜辺のゴミ拾いでも、気が晴れるなら結果はともかくしたほうがよい)。

 

そして生活を送るうえで殆どのことは意味がない。オリンピックによってスポーツの無意味さが今更確認されたが、政治も金儲けもつきつめればなんの意味もない。どれも生きるための手段にすぎないから。ただ、生きるためにその意味のないことをさも重要なことと仕立て上げる輩がいるのは仕方ない。フジロックで食ってる連中は当然フジロックが人の生活にとって不可欠と言い出すだろう。その価値観に同意せずともその神輿に乗りたければ乗ればよい。

そして無意味なことこそ役に立つ。原爆ができたのもナチスを糾弾できたのも奴隷労働に支えられたギリシャ時代の暇人から知の継承があったからで、今後ホームレスらによる世紀の発見が待たれるところでもある。

 

コロナで現代に生きること自体の加害性が明確になった。みんなナーバスになってる。どうかある程度諦めがつきますように。そして崇高な行為とみなされているすきぴの屹立した肉棒による膣壁への摩擦とザーメンの放出が暴力であることが暴露されませんようにと祈るばかりの日々。革命は近い!